第6話 「フランドル楽派」第10回演奏会より

フランドル地方の定義と概略

フランドルという地名は日本では馴染みが薄いかもしれませんが、現在のベルギー北部(フランデレン地方)からフランス北西部(ノール県とパデュカル県)にかけての地域を指します。「フランダースの犬」という物語の舞台といえばご存知の方もおられるでしょう。残念ながらベルギー本国ではこの物語はあまり知られておらず、15歳の少年が将来の夢も希望も持てず貧しく死んでいくなど教育上よろしくないとする意見や、原作者のイギリス人が英語で書いたためベルギーでは全く読まれなかったと言われます。しかし日本人の観光客が非常に多く、近年、少年ネロと愛犬パトラッシュの銅像が建てられたそうです。

中世この地方を支配したのはフランドル伯家です(864-1795年)、ここで取り上げるルネサンス音楽が芽生えた時期にはフランス国王の息子であるブルゴーニュ公爵フィリップがフランドル伯の娘マルグリッドと結婚してフランドル伯を相続した経緯からブルゴーニュ公国(1384-1482年)が誕生し繁栄しました。領土はフランスのブルゴーニュ地方とフランドル地方からなり地図上では飛び地の状態です。元来フランドル地方を含むネーテルランド(海抜が「低い土地」という意味)は“ヨーロッパ大陸の十字路”として古くから交通の要所でした。フランドル地域で良質の麻が生産され繊維業が盛んで、その後もイギリスの羊毛を大陸へ運ぶ貿易地として繁栄した非常に裕福な土地です。現在のフランス、ドイツ、イタリア、ベネルクス三国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ)を支配したフランク王国のカロリング王朝カール大帝(シャルルマーニュ)がフランドルの出身で、さらにスペインで初の統一王朝を成し遂げたスペイン王のカール5世(カルロス1世)もフランドルの出身です。フランス、ドイツと国境を接し、海を隔ててイギリスと向き合い、中世からフランドル地方は国際感覚豊かなヨーロッパの中心として、経済面だけではなく政治の世界でも重要でした。現在も欧州共同体EUの本部が置かれておりヨーロッパの政治の中心です。

ノートル・ダム楽派からブルゴーニュ楽派、フランドル楽派へ

ヴィデルント(ペロティヌス作曲)

解説1で述べましたが12世紀末フランスには「ノートル・ダム楽派」が誕生します。ノートル・ダムとは、nostre:私たちの、Dame:母、「我らの聖母」を意味するフランス語で聖母マリア様のことです。この教会がフランス・パリのセーヌ川のシテ島にあるのは有名ですが、この教会を中心に活躍したのが音楽家レオニヌスとペロティヌスです。多声音楽(ポリフォニー音楽)の中でも「オルガヌム様式」と呼ばれます。

ヴィデルント(ペロティヌス作曲)

左の楽譜のごとくオルガヌム様式とは、グレゴリオ聖歌の1つの音を長く延ばしている状態で、他の付加声部が多数の音符を装飾的に歌います。

続いて14世紀のフランスで発展するのが「アルス・ノヴァ(新芸術)」です。ギョーム・ド・マショー(c1300-1377)が作曲した4声のミサ曲は「ノートル・ダム・ミサ」とよばれますが、ミサ通常文を一人の作曲家が多声的に通作した最古のミサとされます。西洋音楽史上最も注目される作品で、マショーは「通作ミサの祖」として賞賛されています。ノートルダム・ミサのキリエの冒頭が右楽譜です。

時代を同じくして14世紀のイングランドではランカスター王家が礼拝堂聖歌隊を組織し典礼音楽を充実させていました。そこでは3度や6度の和音を用いた和声音楽が展開します。この3度や6度の和声音楽は15世紀初頭にイングランド出身のジョン・ダンスタンブル(c1390-1453年)によりブルゴーニュ公国の宮廷音楽家へ伝えられました。当時のブルゴーニュ公国は豊かな経済基盤の上にヨーロッパ最大規模の宮廷音楽集団を誇り、典礼音楽のほかにフランス語の多声シャンソンや舞曲、器楽曲が盛んに作曲されました。これはブルゴーニュ楽派と称されます。

ブルゴーニュ楽派
ギヨーム・デュファイ(c1397-1474年)
ジル・バンショワ(c1400-1460年)
初期フランドル楽派
ヨハンネス・オケゲム(c1410-1497年)
盛期フランドル楽派
ジョスカン・デ・プレ(c1440-1521年)
ハインリヒ・イザーク(c1450-1517年)
ヤコブ・オブレヒト(c1450-1505年)
ピエール・ド・ラ・リュー(c1460-1518年)
後期フランドル楽派
ニコラス・ゴンベール(c1495−c1556年)
アドリアン・ヴィラールト(c1490-1562年)
クレメンス・ノン・パパ(c1510-c1556年)
ヤコブ・アルカデルト(c1505-1562年)
チプチアーノ・デ・ローレ(1516-1565年)
ローランド・ド・ラッスス(1532-1594年)

そして同じブルゴーニュ公国であるフランドルのカンブレ司教座聖堂の聖歌隊出身の作曲家ギヨーム・デュファイはブルゴーニュ楽派の音楽を受け継ぎ、さらにルネサンス音楽の特徴となる「循環ミサ形式(ミサ通常文の全曲に同一の定旋律をモチーフとして作曲した)」を完成させました。続いて登場するのがヨハンネス・オケゲム、ジョスカン・デ・プレです。フランドル地方は15世紀中頃から16世紀末までの150年間にわたりヨーロッパ全土で活躍する多くの優秀な作曲家を輩出し、またルネサンス音楽の特徴となる「通模倣様式」という作曲原理を確立します。彼らは「フランドル楽派」と称されますが、フランドル楽派の頂点とされる最大の作曲家がジョスカン・デ・プレです。宗教改革者マルティン・ルターは「他の音楽家は音に支配されているのに対し、ジョスカンだけが音を意のままに支配している」と称讃します。

ジョスカン・デ・プレの木版画

フランドル楽派の音楽家が作曲したのはおもにミサ、モテット、そしてシャンソンです。ミサとはキリスト教会の典礼のためのミサ通常文(キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイからなる5曲)、モテットとはミサ曲以外の典礼文を歌詞とするポリフォニー音楽、シャンソンとはフランス語の世俗曲です。世俗曲はイタリアではマドリガーレ、イギリスではマドリガル、ドイツではリートとして発展します。

ルネサンスのお膝元イタリア出身の音楽家が活躍するのは16世紀中頃になってからです。本日演奏いたしますジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ(c1525-1594年)、ルカ・マレンツィオ(c1553-1599年)の登場を待たないといけません。イタリアの作曲家はフランドル楽派が完成させた通模倣様式を継承しました。通模倣様式とは各声部が対等の関係で模倣しながら旋律が進行するもので、ルネサンスのポリフォニー音楽の最大の特徴ともいえます。よく「ルネサンスの三大発明」といわれますが、火薬、羅針盤、活版印刷の3つです。これらはすべてイタリア・ルネサンス期に発明されたものではなく、外国で発明されたものをイタリアで実用化しただけであり、「三大改良」の方が適切であるとされます。音楽も同様で、これまで述べてきたようにルネサンス音楽はイタリアで生まれたものではなく、アルプス以北の地域で完成された様式をイタリアへ持ち込み、開花させたものでした。

あくまでもルネサンスが「古代古典の文芸復興」である点にこだわるならば、デュファイが完成させデ・プレ、ラッソ、パレストリーナらによって開花した音楽をルネサンス様式と称することはできません。当時、古代音楽劇の復興が図られました(フィレンツェのカメラータなど)が、その音楽様式はルネサンス様式というよりむしろバロック様式と呼ぶべき音楽となりました。またヴィンチェンツォ・ガリレイ(天文学者ガリレオ・ガリレイの父親)は古代ギリシャ賛歌の楽譜を記しましたが、綿密な時代考証によりその音楽理論が解読されたのは19世紀末になってからです。

私たちが本日演奏致しますルネサンス音楽が通模倣様式を特徴とすることは明白です。ただし、ギリシャ・ローマ古代古典音楽の復興でもなく、イタリアで生まれた育った様式でもありません。より厳格さをもって表現するならば「ルネサンス期の音楽」と呼んだほうがよいかもしれません。

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