第13話 「ダウランドの生涯と当時のイギリス情勢」第7回演奏会より

ダウランド(John Dowland:1563-1626)はリュートと呼ばれる楽器の名演奏家として当時のヨーロッパで広く知られた人物です。リュートの独奏曲やリュート伴奏付き歌曲を多数作曲したのはもちろんですが、さらに器楽合奏曲、宗教曲まで多岐にわたる作品を残していてリュート奏者としてのみならず作曲家としてもすぐれた才能を発揮しています。

彼は幼少時代をイギリスですごし、17歳でイギリス在仏大使の従者として4年間パリで過ごします。帰国した彼はオックスフォード大学で学び音楽学士の学位を授与されています。その後イギリスで王室音楽家をめざし活動しますが挫折し、ドイツ、イタリアへと旅立ちます。目的は当時ローマで活躍していた作曲家ルカ・マレンツィオに会うためです。しかし旅の途中でエリザベス女王暗殺計画に加担しそうになり、目的を果たさず急遽イタリアを去ります。帰国後の1597年に「歌曲集第1巻」が出版されますが、これはダウランドにとって記念すべき最初の曲集です。翌1598年からの7年半の間、デンマーク王室リュート奏者となり、その間に「歌曲集第2巻(1600年)」「歌曲集第3巻(1603年)」をロンドンで出版します。中でも歌曲集第3巻の第7曲「Say, Love, if ever thou didst find(愛の神よかつて出会ったことがあるか)」、この曲は本日演奏させていただきますが、この曲の歌詞にあるようなエリザベス女王に対する賛辞の曲が数点含まれております。おそらく第3巻を出版する頃にはダウランド自身望郷の念にかられて、イギリス王室音楽家の地位を切望していたのではないかと推測する研究者もいます。最終的にこの夢が実現します。1612年10月28日、エリザベス女王の後継者である国王ジェームス1世付きリュート奏者の任命を受けます。ダウランドは50歳を前に念願がかないます。

ミサ曲やモテットのような主に教会の中で演奏される「宗教曲」に対して、街の中や貴族の屋敷の広間で演奏されたルネサンス期の合唱曲を「世俗曲」と呼びます。世俗曲の先進国イタリアでは世俗曲のことを「マドリガーレ」といいますが、イタリアではルネッサンス時代の大詩人ペトラルカやタッソなどの格調高い詩を選んで作曲しました。しかし、ダウランドが活躍したイギリスでは(世俗曲のことを「マドリガル」と呼びますが)、作詞者は作曲者自身、あるいは不詳なんてこともあります。イギリスの一般庶民や貴族の生活の喜怒哀楽がときにさりげなく、ときに大げさな表現でつづられているのが特徴といえるでしょう。

ではダウランドが活躍したイギリスは当時どういう状況にあったのでしょうか?

まず国の定義ですが、現在の私たちが知っているイギリスとはイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドを併せた連合王国「ユナイテッド・キングダム:U.K.」です。地図でみると大ブリテン島とアイルランド島東北部となります。エリザベス女王が統治した時代のイギリスは大ブリテン島の南半分だけで、北はスコットランドという別の国でしたから現代とはかなり状況が違います。

もう一つこの時代のイギリスを理解する上で重要なのが宗教問題です。大陸で起こった宗教改革の波がイギリスにもやってきます、1534年ヘンリ8世がイギリス国教会をつくるのですが、教義や信仰上の問題でなく政治的な問題に端を発した点で大陸の宗教改革とは異なります。ヘンリ8世にはカザリンという妻がいましたが嫡男に恵まれず、また夭逝した兄の未亡人であったためか、離婚を決意します。しかし周知のごとくキリスト教徒の結婚は神に宣誓した夫婦関係です、正当な理由なくして離婚は認められません。妻カザリンはスペイン出身で、当時のスペイン国王カルロスⅠ世は甥であり神聖ローマ帝国カール5世も兼ねていましたから、当然ローマ教会には強い影響力を持っていました。ローマ教会がこの離婚申請を認めるはずはありません。どうしても離婚したいヘンリ8世はローマ教会をぬけイギリス国民全体を信者とする新教会を誕生させました。これがイギリス国教会です。

ヘンリ8世のあと息子のエドワード6世が即位しますがまもなく亡くなります、米国の作家マーク・トゥエインの「王様と乞食」で有名です。

つぎに即位したのはメアリ1世、カザリンの娘です。両親の離婚騒動の結果できたイギリス国教会を擁護できないのは仕方ないことですが、彼女はスペイン国王フェリぺ2世と結婚しローマ教会へ復帰してしました。イギリス国内は大混乱です。もし二人に嫡男が誕生しイギリスとスペイン両国王を兼ねれば、大国スペインに吸収されて弱小なイギリスは消滅してします。政治面でも宗教面でもメアリ1世は苦労します。反対する臣下をどんどん処刑していくため、ついた名前が「ブラッド・メアリ」血のメアリ、現在はカクテル名になっています。しかし彼女はわずか在位5年で死んでしまいます。

つぎに国位についたのが異母妹のエリザベス1世(在1558‐1603)です。彼女は姉メアリが女王に就いてからロンドン塔に幽閉されていましたが、弾圧されていた国教会勢力の支持をうけて女王に君臨します。女王エリザベスは当時最強とされたスペインの無敵艦隊をアルマダ海戦で破り制海権を手に入れ世界の海へと乗り出します。アメリカ新大陸への輸出を奨励し、東インド会社を設立します。植民地支配の基礎作りが始まり、後の大英帝国繁栄へと繋がっていきます。エリザベス女王は統治した50年近くの間に国内の宗教問題を解決し、イギリスの国際的な地位を向上させることに成功しました。

彼女は生涯独身でしたから自分の縁談話を外交上に非常にうまく利用します。イギリスの国益を最優先とした彼女の言葉です「私はこの国と結婚したのだから」。国民はもちろん熱烈に女王を支持します。リュート歌曲集第3巻の中の「愛の神よかつて出会ったことがあるか」はエリザベス女王への称賛に満ちた内容のため、ダウランドが王室仕官への望みを託して作曲したとの推測を前述しましたが、女王への称賛は当時の国民大衆の感情としてごく当然のものであり、時代の息吹を汲み取って作品としたのではないかと私は考えます。事実としてこの楽譜を目にすることなくエリザベス女王は他界します。無論、女王には後継者はいませんでしたから遠縁にあたるスコットランド国王ジェームズ1世が即位し、ダウランドはこのジェームズ国王へ仕えたのです。

ちょうどダウランドと時代を同じくして、エリザベス女王からジェームズ1世の時代にかけて活躍した芸術家がいます。イギリスが生んだ演劇界の巨匠シェークスピア、その人です。ダウランドをエリザベス時代の音楽家よりむしろシェークスピア時代の音楽家と呼ぶ人もいます。当時の音楽は文学や演劇とも密接に関係しますから当然かもしれません。ダウランドとシェークスピア、偉大な二人の芸術家を輩出したこの時代のイギリスへ今夜はしばし思いをめぐらせていただけると幸いです。

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